【自作自演対談とは?】《『ナイゲン』は“話し合い”の意味を獲得していく物語》
アガリスクエンターテイメントの第13回公演『みんなのへや/無縁バター』時に、「作劇の手法や意図について語りたい」が「誰も聞いてくれない」ので、仕方なしにメンバー内でインタビュアーとインタビューイを捻出して行った対談企画。
諸般の事情(主に台本の遅れと需要のなさ)で封印されていたが、今回『ナイゲン(2013年版)』にむけて遂に復活。再々演のねらい、モデルとなった国府台高校への思いなど、面倒臭く語る作家:冨坂友に、文芸助手:淺越岳人が面倒臭く切り込む。
話し手:冨坂友(脚本/演出)
聞き手:淺越岳人(文芸助手/出演)
冨坂(以下T) 『ナイゲン』に関して語ろうとすると大変すぎるよ、それは「国府台高校(注1)について語る」ていうのと同じだからね。
淺越(以下A) じゃまず、「『ナイゲン』とはどういう芝居か」っていうところをまず簡単に紹介してよ。
T 作者自ら一行で語るっていう?
A そう。まずこれをやっとかなきゃダメでしょう。
T えーと、、、「会議に不慣れな高校生たちが、、、お互いを蹴落とし合う会議をしなきゃいけなくなることによって、話し合いの意味を、会議の意味を獲得していく」という話です。
A 「会議の意味」っていうのは広義の「話し合う」っていう行為の一般の?
T そう。だから“話し合い”の意味を獲得していく話。「獲得していく」って言っても、実は二種類あって、これは超ネタばれ的な補足ですけど、それは「自分たちでも意識 せず体現してしまう人たち」と「それを見て気付く人たち」。
A それは喋りすぎだろ(笑)。
T まあね。だから『ナイゲン』てのは不慣れな高校生が「一クラス落とす」ていう殺し合いを押し付けられて、、、「殺し合い」て例えると話おかしくなるな。要するに“話し合い”をしなきゃいけないことでその意義を獲得していく、てことだな。
A あー、強制されて「殺し合う」ことによって今までリアルじゃなかった「命の意味」に向かい合う、ていう『バトルロワイヤル』みたいな。
T 『バトルロワイヤル』ですね(笑)。
A この紹介は今までしたことないね。
注1:国府台は「コウノダイ」と読む。千葉県市川市にある実在の高校。「自主自律」を校風とし、特に文化祭では3年生がクラスごとに演劇の発表を行うなど、非常に活動がさかん。冨坂・淺越の出身校。
《学校は一から百まで自由じゃない》
T あと難しいのが同時に“自治”の話でもあるっていう。普通「会議の話」をやるときにこのテーマは出てこないよ。
A それは「国府台高校」という一種特殊な、どのくらい特殊なのかっていうのは中の人間にはわからない部分もあるんだけど、そのアガリスクの母体とも言える学校の「自主自律」っていう校風があって、「自分たちの学校は自分たちで良くしていく」というスピリットが未だにずっと続いてる。その目線が前提にある。
T そうなんだけど、「会議もの」をやるときに、まあ『12人の怒れる男』とか『12人の優しい日本人』とか、会議を進めていくなかでそれが日本人論になっていたり人間性が出たり、あとコメディである以上「会議が上手くいっていない」ていう部分を描いているだろうけど。でも“自治”ていうテーマ、「押し付けられて不本意なことを話し合わなきゃいけない」ていう流れがいわゆる「会議もの」のスタンダードからは外れている。言っちゃうと「話し合いの意味」を書くときに余計なんだよね。要素として。
A それは「学校」ていうある種特殊な環境が舞台っていうのがあってさ。
T 一から百まで自由じゃないぞ、ていう。
A そうそう。そもそも凄く狭い枠しか与えられてなくて、その中での“自治”なわけじゃん。普通話し合いとか民主主義みたいなのものは誰でも自由に意見できるっていうところからスタートしているけど、そうじゃないじゃん。そりゃ世の中出た後だっていろんな立場とかでがんじがらめだけど、でも学校はそもそも「与えられてる」。自分たちで触れる領分に限界がある。それが『ナイゲン』の設定の特徴なんじゃないか。
T 会議の物語ってみんなで話し合わなくちゃいけなくて、ああだこうだ話し合って「一個の結論を決める」ってパターンと「一人脱落する」ってパターンがあって。その「一人脱落」にしたっていうことが初演(2006年版)と再演(2012年版)の一番の違いなんだけど。
《『ナイゲン』を書くことで自分の中で「常識」となっていたものが「主張」になるって気付いた》
A 今ちょうど話が出たんだけど、なんでナイゲンを、まあ正式には「内容限定会議」っていう国府台高校に実際にある会議なんだけど、これを芝居にしようと思ったの?そしてさらにややこしいのだけど、『ナイゲン』は今度で「再々演」、三回目じゃん?去年(2012年)に『ナイゲン』の「再演」をして、割と好評をもらって観客動員も伸びて、ていう公演の前段階があるわけじゃない。
T 「前段階」。2006年にやった初演版の『ナイゲン』。
A 旗揚げが2005年だからちょうど一周年くらいで。あれ100人も見てないんじゃない?
T 91人とかだった気がする(笑)。
A そのころなんで「内容限定会議」を題材にしようとしたか、ってところ。実在の「ナイゲン」のどこに魅力を感じて芝居にしようと思ったの?
T 、、、その当時だとなにか特別「これだ!」ていうのがあったわけじゃなくて。単純に会議の話がやりたいな、って。
A それは多分『12人の優しい日本人』とかへの「憧れ」。
T それもあったし、あと「月9」のドラマ『ビギナー』とかも好きだったし。「会議の話をやりたい」ってなったときに「ナイゲンかな」って。あとそのときのアガリスクのメンバーとの共通の会議のイメージが「ナイゲン」だったってだけかもしれない。俺もそうだったし。
A 多分あのときの国府台だったメンバーは全員「ナイゲン」に出たことあったんじゃないかな。
T そうかも知れないね。あと単純に面白そうだったから。愉快な逸話が多かったから。前は「愉快な話があるからコメディにしよう」って言う程度の考えだったから。昔は。
A だからコケた。
T いやあの当時にしてはいいほうでしたよ。
A 確かに初めて褒められた公演ではある。ていう第三回公演『ナイゲン』があって、そこから寝かせに寝かせ六年後、再演しようと思ったわけじゃん?何でそう思い立ったの?
T 初演のときに結構褒められたりもしつつ批評的なものも珍しくしてもらえて。そこで自分たちも意図していなかった「なにか」を褒めていただいたことがあって。
A これは具体的に言うと前回(2012年版)のナイゲンのフライヤーにも載せさせていただいた自主映画監督、小野光洋さんの批評コメント(注2)だよね。
T 自分たちはただ面白そうだから、笑えるネタが転がっているから「ナイゲン」 を題材に選んだに過ぎなかったんだけど、いざやってみたらそれが、会議や話し合いや民主主義の「みんなで話し合って決める」ってことの肯定に、奇しくもなっていたっていう。
A それは意識してなかった?書いたときは?
T お話として座りがいいかな、くらいは考えていたけど。
A 「今まで会議で出てきたボツ案を組み合わせて発表できなくなったクラスを救う」っていう、実はこの構成は当時もあんまり変わってない。それを「三人寄れば文殊の知恵」みたいな肯定として受け取ってもらった。これは自然に出てきたものだったと。
T 自然に出てきたもの、、、なんじゃない?昔過ぎてあんまり覚えてないけど。そういうのを「民主主義の肯定」と捉えてもらって、そういう論点を「真っ当だよね」、て褒めてもらって「なるほど」と。「俺はそんなものを書いていたのか」と。国府台高校でいろんな話し合いとか会議とかをやって、俺の中で勝手に「常識」となっていたものがそういう「主張」に成り得たんだ、みたいな。
A 作品を書くこと、そしてそれを他人に評価されることによって、それを自覚した。
T そう。だから今度はそれを「自覚的に」やりたいな、て思ってて。いつか再演しようと、細部を作り直して再演しようとずっと思ってて。
A それは早い段階から?
T かなり早い段階から。最初は2008年にやろうと思ってたからね。
A やめといてよかった(笑)。
T 本当にそうですよ(笑)。その後も何度かやろうと思ってはやめて。なんでかって言うと会議のお話だから普通に「お芝居」しなくちゃいけないから。
A そうね。
T この言い方にも語弊はあるけど。「会話劇」をしなきゃいけないけど、そういうの苦手だしそういうの向いてない、と。一時期いい話とかもやったけど微妙になったし自分たちも照れるし。そのために避けてたんだけど、いかんせん高校生の話なので。そろそろやらないと、どうにもならなくなるぞって。
A それは年齢的な話だよね。
T なので、思い切ってやろうかな、ってタイミング。それと劇団の運営的にも、いつかロングランに踏み込もうって思ってて、そのときにはセットも少なくてただ役者が喋ってるだけの上演に際しての物理的な制約が少ないものをやらなきゃな、と思っていた。
A そんな初演と、2012年の再演版で、作品として一番変わったことってなに?
T 「学校側になにかを押し付けられてそれに抗う」ていう目線が、つまり革命とかレジスタンス的な、“自治”の物語になった。
注2:ー‘民主主義’や‘法令遵守’に対するアイロニカルな視点が効いている。
それでいて、‘三人集まれば文殊の知恵’的に、肯定的視点でしめくくるのも的を射ている。
「会議」には、いい面も悪い面もあるのだ。
(中略)
それにしても、高校時代は文化祭に意味なく燃えたものだ。
あの頃は、何でも楽しんでやろうという気概に溢れていた。
そんなことも思い出させてくれる芝居だった。
《「本当に自分がそうとしか思えない」っていうことを書いていれば照れない》
A で、やっと現在地に戻ってきたんだけど、今度はなんで「再々演」、しかも一年という短いスパンでやろうと思ったの?
T うーん、、、
A 生臭い話もOKよ。
T 生臭い話だと、「褒められたからもう一回やっとくか」ていう計算も、もちろんあるよ。
A 忘れられないうちにね。
T あと細部をもっと詰めて、もともとのベースがある段階でもっと作品を突き詰めていく、ていうサリ品の作り方がしてみたくなったのと。「演劇屋さん」として。いつもドタバタと作ってワーっとやってワーっと終わる、そういう作り方じゃないものをそろそろやっておかなきゃな、って思ったのが一つあって。
A それはそうね。
T あとは去年やってみて、褒められはしたけど「ここは伝わってないのではないか」っていう部分があって。去年大きく変えてた“自治”の、「学校に押し付けられた」ってところ、それに賛成するか反対するかに最終的になると。途中で足の引っ張り合いになってそれがコメディになっているんだけど、学校側の案を飲むのか、それとも抗うのか、ていう話。
A 自分の意にそぐわないものに関してどう戦うのか。または戦わないってのも含めて。そこが自治であり自律の話って部分ね。
T そう。そこが一番の大きな変更点なんだけど、そこに関して凄く褒めてくれた人も含めて「どのくらい伝わったのか」っていう気が少ししていて。
A それは評価云々の前にも「描ききれなかった」っていう思いも?
T あるし。
A でもさ、そんな反省点なんてのはどの作品打ったってそうじゃん。その中で、なぜ『ナイゲン』?
T なんで他の作品じゃなくてなんで『ナイゲン』なのか、てこと?
A そう。すでに一回再演してるわけじゃない。しかもこの短いスパンで。
T 、、、やっぱりねえ、珍しくだけど「この登場人物好きだな」、だからもう一回やりたいな、って。「この世界にもう一回行きたいな」って思っちゃったんだよね。普段さ、演劇とかやっていると自分の役に愛着を持って語ったりさ、自分の書いた役を好きになったり、いいことなんだろうけど、それ見て「恥ずかしいな」って思っちゃうのよ。
A どんだけの自慰行為だって感じはするよね。
T 恥ずかしいじゃん、それ。だから役について思い入れを持たないようにしてたのよ。
A それは「持たないように」していた?
T 「持たないように」してた。恥ずかしいから。そんなに持てるとも思ってなかったし。だから名前とかも適当に決めてたし。
A 役職だけで名前ないことも多いからね。『ナイゲン』も最初はそうだった。だから「個人」としてみてない。「キャラクター」としてじゃなくて「ロール」としてしか見ていない。
T だから「役」というより「役割」で書いていたんだけど。だけど今回は「またこいつらの世界の話をやりたいぞ」って。
A それって多分あるのがさ、今作はかなり「なにか」を投影してるじゃない。実際何人かのキャラクターには明確にモデルがいたり。その中には俺の同級生もいるんだけど。そういうのが強い作品じゃない。
T 強い。だけどそれと同じかそれ以上くらいにやってる役者に引っ張られているのも強いんだけどね。
A そこがピタッとハマッている、ていうのがあるんじゃん?
T うん、、、なんかね、観客としてもこの作品を見たいぞ、て感じなんだよね。
A ああ、それは一人の観客として?
T なんかもう観客なのか作り手なのか自分がどんな目線か不安定なんだけど。もう一回「この作品に触れたい」って感じ。だって最後の流れとかあれ、超良くない(笑)?自分で言うけど(笑)。
A 自分で書いて自分で演出しといて(笑)。
T 『ナイゲン』に関してなんで恥ずかしくないかってあんまりわからないんだけど。普通こんな「お話」書くと大抵恥ずかしい。「いい話」みたいなの書くと恥ずかしいんだよ。
A どんな顔していいかわかんないし。恥ずかしくてボケたくなる。
T 『ナイゲン』以前にやった「お話」っぽいものだと『異性人』とかがあるんだけど。あれなんかもう一回やるならコメディに変換しないと小恥ずかしい。もちろん褒めてくれた人もいるけど、同じような効果を「笑い」によって生み出すように変換をかけなきゃいけないんだけど、『ナイゲン』は、、、本来なら恥ずかしさ満点なハズなんだけどね。
A だってさ、俺去年『ナイゲン』再演するってなったときに乗り気じゃなかったじゃない。あらずじ書いてみて、「青春群像劇」って。「青春群像劇」って書いてあって面白かった芝居一本も無かったじゃん?
T それは知らないけど(笑)。
A だって「高校生」が「文化祭」の「話し合い」するってあらすじの話、期待できないもん。
T 期待できない。しかもどうせ20代中盤とか後半の連中が高校生やるんだろ?って。
A だから自分がそう思うような作品を、自分たちでやって何になるんだろう?ってなってさ。そういう思いはあったもん。だからこれは照れ、、、照れなのかな。芝居の最後とかがっつり芝居してるじゃん。
T 芝居してる。
A 今日の稽古でもちゃんと芝居になってた。
T いわゆる「熱いシーン」。だけどなぜか『ナイゲン』だと照れなくて。なんでかなって考えてて。そしたら「中途半端」だったからダメだったんですよね。
A 今までが。
T うん。「本当に自分がそうとしか思えない」っていうことを書いていれば、照れない(笑)。
A やっと気付いたか(笑)。やっと気付いたんだ何本も書いて。
T でもある程度、そこは凄く照れやすい体質のがいいと思うよ。照れるハードルがあまりに低いと他の人は恥ずかしい、ってなるじゃん。もしかすると俺も決して高くはないのかも知れないけど。他からは恥ずかしいと思われてるかも知れないけど。
A そうかもね。
T なんて言うんだろう、、、「だってこれはそうとしか思えないもの」って。
A たぶんそれは初演の段階では無意識に出していたもので。それを「自覚して書く」てことをしたときによりそこが明確になって、だから去年と比べてもそういう「意味のある」シーン、コメディ的ではないシーンも増えたじゃない?
T だけどそこに「意味がある」から。シーンとしての密度は落ちてないどころかむしろ増えている。持っている意味の量が。
A 基本的に俺たちはそういうコメディにおける「お話」のシーンを邪魔だと思っているからね。
T それのために25分で、2人でシチュエーションコメディやったりしているから。
A 最初に高速で状況を一人語りで説明しきっちゃったり。
T 名札使ったり。フキダシ使ったり。
A でも今回に照れはない?
T 照れはない、ね。『ナイゲン』ならOK、てなる。
A それは自分の中にある「確たるもの」を書いているからだよね。
T 多分ね。
A 「確たるもの」がこんな限定的なものでいいのか、て気もするけど(笑)。他にあるのかね。
《「実在の人物みたいだ」とか言いたくないけど、「こいつらいるんだろうな」、って》
A あと今回特徴的なのが、役者が全員続投じゃない。これは作品としてでかいと思うんだけど。
T でかい。あのねえ、「登場人物に会いたい」って言ったけどもしかしたら、恥ずかしい話だけど「『ナイゲン』をやっている彼等に会いたい」ていうのかも知れない、って気がする。
A それは恥ずかしいねえ。
T あんまりさあ、「座組大好き人間」ていうのも、それまた演劇の恥ずかしいところだから嫌なんだけど、恥ずかしいから「座組大好き人間」になりたくないけど。
A なにが違うんだろう。
T 『ナイゲン』の登場人物の要素って、俺がもともと持っていた「高校時代のあいつらやこいつら」だったり、みんながなんとなく「共有しているあいつらやこいつら」を使っているんだけど。実際の喋り方とか動き方とか、台詞に関しても結構ちゃんと役者をサンプリングしてやってるじゃない。かなり「当て書き度」が高いと思うのよ。
A 特に再々演だから、もう台本のレベルでそっちに合わせて直せるしね。
T そっちよりも「がっちり構築した人物像を演じろよ」って言われるかもしれないけど。「当て書き」にもタイプがあって。「役割を似せる」ていうのと、そいつらの「振る舞いを似せる」のと。それは別だと思ってて。『ナイゲン』は「役割」に関しては確たるイメージがあるんだけど、表現している「様」は役者のに当てて書いている。なんかそれもひっくるめてなのか、全員続投じゃないとやりたくない、て思ってしまった。
A もちろん慣れているし、稽古もやりやすい。でもそれ以上に、ってことだろうね。
T まあ他の人だったら他の人でそりゃ別の表現があるかもしれないけど。うん、台本変えないなら役者変えないでやりたい、て感じかな。
A なるほどね。
T 今回も書き直したりちょこちょこ手を加えたりしてるけど。
A 結構変わってる?
T 結構変わったあげく元に戻ったりしているけど(笑)。
A 確かに。この段階になってね。
T 役者変わってたらもっと変わってたんじゃないか、って。
A そうだね。中の人間だからあんまり言えないけど、「凄くハマっているな」、って思う。ずっと舞台上に一緒にいて。
T 「こいつらいるんだろうな」、って。「いる」とかこれもあんまり言いたくないけど。「実在の人物みたいだ」とか自分で言いたくないけど。
A なんだろう、その役者本人のクセとかあるじゃない?動きだったり喋り方のクセ。それと台本上に書かれているキャラクターが上手いことマッチしている気がする、やってて。
T 大丈夫?こんな褒めあいみたいになって。
A じゃあ突っ込んだこと聞くけどさ。さっき登場人物のモデルの話がでたけど、登場人物の一人、どさまわりって特に思想の部分で冨坂友自身をかなり投影しているよね。
T 、、、投影している。当時は「国府台高校が国府台高校らしくあること」っていうのを一番大事だと思っていて。それを自分のアイデンティティの代わりに据えている節もあったから。
A 宗教だね。
T そう。国府台高校を信仰の対象にした。「なにそれ?」じゃん。そんなヤツいないし、それに今までだったら絶対自分を投影なんてしない。だけど国府台高校の話やったからなんだろうけど、いつのまにか。これも2012年版やったときに自然と。
A 書いていく中で自然とだろうね。
《花鳥風月という役によって、この作品の書く「希望」がハッキリした》
A じゃあ、去年の2012年版と今回の2013年版で、一番変わったのってどの部分?
T 一番変わっているのは、矢吹ジャンプさん演じる3年1組花鳥風月ってクラス。ここの扱いが、全然違う。あとセットが大きく変わります。
A セットというより舞台と客席の配置ね。
T 去年は客席が舞台の二面を挟む形だったんだけど、今回は1年生・2年生・3年生が「コ」の字型に座っている、その後ろを客席が3方全部全部囲むっていう。新宿シアター・ミラクルの限界に挑戦していきます。両面の舞台自体が去年初めてだったんだよね、シアター・ミラクルで。
A 伊達にミラクルを使い続けてないぞ、と。じゃあ中身の話に戻るけども。どう、最終的なリライトの成分は多いと思う?少ないと思う?
T うーん、さっきも言ったように結局元に戻っているけど、一回違うところを経たことによって、やっている展開は前と同じことになってても多分意味合いが変わっているから、結構大きいんじゃないか、て気がする。
A やってるとわかんなくなっちゃうんだけどさ。
T 同じ台詞言っているもんね。
A 台本の変更版が来て、細かく返して直していくと「あれ?前と同じになってない?」って。
T 「前のに戻ってるぞ」って。
A だから前回見に来てくれたお客さんが今回見て、どのくらい変化を感じるのかがわからないんだよね。
T さっきの花鳥風月の話だけど。まずこの話は、塩原俊之演じる3年3組どさまわりがキーパーソンになってて。学校に押し付けられたものに従うのはそもそも間違っている、ていう人。
A 国府台高校の“自治”の部分に一番傾倒している登場人物だよね。そもそも「一クラス落とす」のを学校側に押し付けられて、それを話し合う時点で間違っていると。だから突っぱねようと。その人と他の登場人物との関係で進んでいく話だったんだけど。
A それが2012年版だったね。
T それに花鳥風月っていう役が同じくらい重要なキーパーソンとして浮上してきた。というのも、去年「どさまわりと花鳥風月の話なんじゃないか実は」って稽古していく中で思ってきて。この話は花鳥風月の目線、つまりどさまわりの言っていることも議長を中心とする他の登場人物のこともわかるっていう、両方の意見に理解を示しているっていう目線で見るものなんじゃないか、て。
A 中立って言うか。どちらの立場にも片足ずつ突っ込んでいる。
T だから花鳥風月の目線で見る、ていうのが『ナイゲン』を味わう上で一番なんだけど、去年やっただけだとその目線で見るお客さんはあんまりいなかったし。
A というより「見れなかった」よね。
T うん。あの構成じゃその目線では見れない。それによってこの作品のテーマとかが伝わりづらくなっていたな、って。
A それがさっき言ってた「やりきれなかった」ってところの最大の部分。
T 「花鳥風月とどさまわりの関係性」。2人とも過去の「ナイゲン」を共有している、ていう。この視点を通すと言いたいことがハッキリする。
A その関係性に焦点を当てる。それによってどさまわりの理想、「やりたかったこと」と「やれなかったこと」、それに花鳥風月によって光が当たった。
T 見やすくなったと思う。どさまわりの言っていることが。そしてこの作品の結論が。この作品で言いたい「希望」が。
A “自治”ってものをどう守っていくか。「自分たちで決める」てことを。色々なものを押し付けられちゃう世の中で。
T どうにもなんない現実をどうするべきなのか、てこと。そういう目線で見てもらえると社会派っぽく受け取ってもらえたりしないかな、と。
A 「社会派コメディ」?
T それはそれで恥ずかしいな。